タイトル

南千住 素盞雄神社 氏子町内

荒川区荒川中央町会・熊坂長範(クマサカチョウハン)
2010年撮影 2010年撮影
駒札に「三河島 一番」、裏面に「明治廿年大祭 八月三日」の記述。古川長延作と伝わる。 昭和60年頃まで「熊坂保存会」があり、数件で人形の各部を分散保存していたという。 熊坂長範は災いをよけてくれるとされ、事実、分散保存していた旧家は戦災を焼けずに残ったという。

荒川区荒川4丁目西仲睦会、荒川文化会、大西町会、荒川宮地町会
稲田姫(イナダヒメ)
2010年撮影 2010年撮影
「文久元年酉九月出来」の函書き。古川長延作の木札があり、「明治九年 泰精斎 古川 長延」とある。

荒川区瑞光(ズイコウ)町・素盞鳴命(スサノオノミコト)
2010年撮影 2010年撮影
昭和40年前後に浅草橋近くの人形店を通じ、岩槻のほうで作られたという。

掲載順は番付(駒札)に準じた。1番・熊坂長範、2番・稲田姫、3番・素盞鳴命という順。

東京都内としては多くの山車人形を有する荒川区(掲載した素盞雄神社以外に諏方神社にも山車人形が存在)だが、 明治33年の読売新聞に山車が引き廻されていた当時の様子が掲載されていた。
読売新聞 明治33年5月31日

千住天王の祭禮
南千住に安置せる素盞雄~社(里俗千住天王と伝ふ)ハ例年の通り來月(らいげつ)二日 より八日まで七日間祭禮を執行する由ハ既に記せしが本年ハ氏子中も躍起となり夫々(それぞれ)の 催しあり山車ハ南千住にて日本武尊、楠公(法橋(ほこ)山車)、加藤清正虎狩の三本 箕輪より武蔵野と此程買入れし神功皇后の法橋山車との二本三河島村より稲田姫と祇園祭との 二本を引出し其外町屋村にても花山車を出す筈にて~樂屋臺(かぐらやたい)ハ大橋際南詰、 小塚原鉄道踏切際、同所貸座敷三龜露樓前、同金光教會の五ヶ所と通新町に二ヶ所を設くると 云ふ、又~興の渡御ハ二日より始まりて四日までに通新町、箕輪、三河島村、町屋村、南千住 を巡り盡(つく)す豫定(よてい)なるが三河島村にてハ例に依つて三日の夜同村の若者數十名にて 手に手に松明を持ちて~興を送るなりと

南千住に日本武尊、楠正成、加藤清正の虎狩の三本の山車、箕輪(三ノ輪)で武蔵野の山車とこの年購入の 神功皇后の山車、三河島村から稲田姫と祇園祭の二本が曳き出され、町屋村でも花山車が曳き出される予定と ある。この年の素盞雄神社の祭礼には5〜6本の山車が出されたようだ。現在も残る稲田姫が記載されている が、他の熊坂長範、素盞鳴命は記載が無く代わりに祇園祭の山車が記載されている。祇園祭とは如何なる山車 だったか興味深い。記載で面白いのは「鉾山車」を「法橋(ほこ)山車」と記載している点。当て字の妙を 楽しんでいるのであろうが、もしかしたら「法橋」を冠した作者「仲秀英」「原舟月」などの人形山車で あったため、そう呼んで当て字と作者名の合わせ技であった可能性も無くはない。単純に一本柱型の花山車と、 鉾型の山車との区別だったかもしれないが…。いづれにしろ、いろいろ想像を掻き立ててくれる記載である。

明治33年、素盞雄~社氏子・山車リスト
南千住
箕輪(三ノ輪)
三河島村
町屋村
日本武尊 楠公
法橋(ホコ)山車
加藤清正虎狩 武蔵野 神功皇后
法橋山車
稲田姫 祇園祭 武蔵野

 その他、祭礼の様子も記載。7ヶ所に神楽屋台(掛け屋台)が設けられ、三河島村では恒例の神輿送りが 手に手に松明を持った若者数十名によって行われたようである。

 また、平成14年度荒川ふるさと文化館企画展で発行された「あらかわ祭事記-描かれたまつり・記されたまつり-」 によれば「第一番熊坂長範、第ニ番素盞鳴命、第三番稲田姫で、三体は、明治の初年頃まで、小室節とともに 三ノ輪、坂本を経て、上野広小路まで巡行した。」という。また南千住については「南千住にも、いくつかの 山車人形があったことが区民により確認されている。三ノ輪上町、河原崎、志茂、若宮の氏子の人形たちである。」 とある。先述の読売新聞の「南千住にて日本武尊、楠公(法橋(ほこ)山車)、加藤清正虎狩の三本」はこれらの 地区の山車だったと考えられる。「あらかわ祭事記」には河原崎の山車の古写真が掲載されている。髪の毛の長い 人形のようなので日本武尊であろうか。小さい写真で判別しづらいが、古写真で当時の様子が分かるのは大変貴重。 このように沢山の資料から山車人形があったことが伝わることは喜ばしいことである。これらの山車人形が 何処かの倉庫にでも眠っていて現存していることを望まずにはいられない。
 

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