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《 第一考:入間市志茂町にあった古山車 》
「入間市志茂町には今の物より前に山車があった。よそから借りたものかも
知れないが。」という情報を得たのが、平成17年のお燈篭様でのこと。
そこから、この古山車についての追跡取材が始まった。聞き込みの結果、
当時の写真を得ることに成功した。それが下の写真である(写真の持ち主の
方の御厚意により掲載の許可を頂きました。御協力ありがとうございます)。
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そんな折、有力な証人に出会うことが出来た。大正生まれの地元の方で、当時の
志茂町の山車を見たことがあるというのだ。早速、挨拶もそこそこに、お話を
お伺いした。以下が、その時のお話を要約したものである(ご本人様に確認済み)。
《 入間市志茂町に大正頃にあった山車について。》
大正初期頃とされる、当時、小学生くらいであったであろうという、その方の話に
よると、この山車は、他所から借りて来たものではなく、志茂町で持っていた山車
だったという。一本柱が囃子台の真ん中に建っており、その上に人形が乗っていた
という。真ん中に建っていたので踊りを踊るのに邪魔だったという。何処から譲られ
たかは、断定は出来ないが、当時、川越と交流があったので、川越から譲られたので
はないかとの事だった。初めから傷みがひどく、小さな山車だったという。何の
人形が乗っていたかは子供だったので分からなかったが、当時、愛宕神社から出た、
つきあたりにあった「ワタヤ」さんが、御酒所となっており、大抵は、ここへ人形を
飾っておいたのだという。電線が出来たため降ろして曳き回していたという。志茂町
で何回か曳いた後に入間市の高倉へ譲ってしまったとのこと。その後、しばらくは
山車がなかったので、入間市新久から囃子連ごと山車を借りてきて曳きまわしていた。
そんな折、仕事の関係で越生に行くことが多く、当時の越生町仲町で山車をもらって
くれないか?という話が出たので町内会へ、その話をもって行き、現在の屋台を
譲られることとなったということだった(平成17年、現地での聞き取り時)。
以上が聞き取りできた内容である。思いがけず、現在の山車(屋台)についても
お話が伺えたのだが、今回とは別で取材中の考察に譲り、今回は、古山車について
追っていくこととする。この証言により、この古山車が一本柱型人形山車であったこと
が証言付けされた。年代も大正時代で、ほぼ一致した。譲渡先も判明し手掛かりも
増えた。気になるのは譲られたのが「川越」ではないか?という点である。川越で、
一本柱型人形山車というと天保15年、川越氷川神社に奉納された祭礼絵馬に描かれた
山車が思い浮かぶ。その中でも、この志茂町の古山車と似ているものを探すと、気に
なる一本に思い当たる。絵馬の先頭を行く「喜多町」の俵藤太の山車である。他とは
違い、この山車だけが太鼓橋が掛けられた高欄を持っており、志茂町の古山車にも
太鼓橋状の作りが見て取れる。乗せられている人形も片手を掲げた狩衣姿の武者人形
と一致する点が多い。但し、何度も見ているうちに、掲げている手が喜多町の俵藤太
たは逆の手であることに気がついた。喜多町では右手を掲げ、志茂町の古山車では左手
が掲げられているのだ。文政9年の川越氷川神社祭礼絵巻等、知りうる資料は見て
みたが、どれも、やはり掲げているのは右手であった。写真の古山車の前に居る2人の
女性の半天の「志茂町」の字が普通に読めるため、写真が逆焼きではないことも確認
している。(下写真参照。右写真の喜多町の俵藤太の写真は喜多町の地元の方の
御厚意により、提供していただきました。御協力ありがとうございます。)
《 川越市喜多町での聞き込み 》
川越市喜多町では入間市へ山車を譲ったというような伝承は残っておらず、古いことは
分からないとのこと。但し、現在の人形は明治30年の山車新調以前からの人形で江戸
時代のものであるという。もし、入間市に山車を譲ったのだとしても、人形は譲らず、
山車だけを譲ったのであろうとの見解であった。残念ながら有力な情報は得られなかっ
のだ。山車はともかく、人形の出所は?という謎が残ってしまったのだ。折角なので、
その足で川越氷川神社に向かい、ある事の確認も行った。そう、本殿に施された十ヵ町の
山車の人形に因んだ彫刻の喜多町、俵藤太の掲げた手はどちらだ?という点の確認である。
結果は、ここでもやはり、右手が掲げられていた。左手を掲げた志茂町の山車人形は?
一体?謎は深まるばかりである。(下写真が川越氷川神社本殿の喜多町、俵藤太の彫刻。
川越氷川神社様の御許可を得て撮影、掲載をしております。御協力ありがとうございます。)
《 志茂町から譲られた高倉の一本柱の山車 》
大正7年頃に、扇町屋から高倉に譲られてきたとされ、聞いた話では、川越の喜多町から
譲られてきたという伝承が扇町屋ではあったという。扇町屋では曳いたことはなかった
とも聞いたという(扇町屋志茂町の古写真では曳き出されていたので、人形を乗せての
曳きまわしがされなかったということか?)。高欄に太鼓橋が乗っていた一本柱型人形
山車であったとされる、この山車は高倉に譲られてきた時には人形がなかったため、祭礼時
には、所沢の「あずまや」という人形屋から借りてきて乗せていたのだという。
借りてきた、この人形は俵藤太であったという。また、高欄下に下がっている、水引き幕は
扇町屋からは譲ってもらえなかったので、高倉に来た時には人形、水引幕がなかったのだ
とのこと。この山車は現在、高倉で使用されている屋台(置き屋台)が製作された昭和4年
の前の年の昭和御大典頃まではあったとされる。(因みにこの屋台は昭和御大典に合わせ
製作される予定であったが、都合により昭和4年にずれ込んだ。作者は地元入間市の宮大工の
森浜吉氏。)この新屋台製作のため、車輪やその他をバラバラに売られたという。特徴で
あった太鼓橋部分は個人宅の庭に飾りとして置かれていたというが現存してはいない。近年
まで、せいご台部分は現存していたらしいが、今では無くなってしまったようだ。大きさは
さほど大きくなく、幅(間口)は5尺、長さは7尺の小さなものであったとされ、せいご台の
真ん中に一本柱を建てた5寸角の穴が空いていたという(数字は全て実測値)。但し、
一本柱の柱に付いていた波型の彫刻と、高欄下に付けられていた、持ち送り部分の龍の彫刻
は現存しており、波型の彫刻2つは現屋台の脇障子に充填され、その他の彫刻は大切に
保管されている。持ち送りの龍の彫刻は現屋台の左右の虹梁下に一時期、充填されていたが、
演奏に支障があるため、今では外されている。お話を伺った囃子連の年長者の方もその山車に
ついて調べておられ、川越の喜多町の山車であったであろうと推測されておられた(平成
17年現地にて聞き取り時。御協力:高倉寺御住職様、高倉郷土芸能保存会様)。
口伝のみで、証拠となるような文書などは現存しないのではあるが、最終的に高倉まで
譲られてきた一本柱型のこの古山車は川越市喜多町の一本柱型人形山車であった可能性が
かなり高いと思われる。川越市喜多町→入間市志茂町→入間市高倉という譲渡ルートが
浮かび上がったのであるが、これは山車のみで人形は喜多町からは譲られなかったと見る
のが妥当であろう。では、志茂町で乗っていた左右逆手となる俵藤太に似た人形はどうした
のであろう。これについても高倉郷土芸能保存会の年長者の方との話の中から、志茂町でも
人形は借りてきていて、高倉へ譲渡された後も同じ人形店から借りていたのではないか。
との推測が一番妥当ではないかと思われた。山車人形を貸すような店が当時あったのか?
と思われるかもしれないが、先日の飯能市直竹での追加取材時に「昔は高欄の上に人形を
乗せていたのだが、人形は地元では所有しておらず、砂川村(現東京都立川市)のほうの
貸し人形屋から借りてきていたと聞いた。」との話が得られた。他所でも貸し人形店の話が
出てきたことから、当時、貸し人形店の存在は割と世間に認められたものであったかと
思われる。貸し人形店の人形であれば、喜多町の俵藤太を参考に似たように作ったが掲げた
手が逆だったというオチは納得できなくも無い。所沢の人形店も現在あたっているところで、
何か分かったら後日報告できるかと思う。さて、最後に高倉に現存する、一本柱型人形山車の
彫刻を御覧頂こう。現存するのは一本柱の柱面、各方向4面に貼られていた波型彫刻4つと
高欄を支える持ち送り部分の彫刻、龍、同じく4つである(下写真参照のこと)。
そして、持ち送り彫刻の龍である。4つのうち2つを見せて頂いた。
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今回、高倉郷土芸能保存会の年長者の方も独自に調査しておられ、取材に際し、多大な情報を
ご提供頂いた事に御礼申し上げます。今回の夏休み(?)自由研究は、高倉郷土芸能保存会の
年長者の方との共同研究として御報告申し上げることに致します。また、入間市志茂町地元の方々、
川越市喜多町地元の方々、入間市高倉の地元の方々、入間市博物館様、川越氷川神社様、高倉寺様、
お燈篭様からいろいろご紹介いただいて情報提供頂いた方々、その他御協力頂いた、全ての方々に
深く御礼申し上げます。ありがとうございました。次回の自由研究をお楽しみに。
冒頭の志茂町の一本柱型人形山車の写真は入間市博物館刊行の 「セピア色の点描」に掲載されております。他にも同市新久や 野田の旧山車、そして高倉のタイコヤグラといった祭礼写真も 数点掲載されております。お問い合わせは 入間市博物館 まで。 |
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