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自由研究

《 南高麗近郊に多く見られる山車(屋台)形状 その2 》

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囃子台よりも前方に張り出した前輪が一本の木材で山車本体と結ばれる・・・
取材した範囲内では、この南高麗(飯能市)、入間市、狭山市、日高市。そして
今回ご紹介する別件で取材した羽村市に見られるこの山車(屋台)形態。さらには、
瑞穂町には似た構造の山車(屋台)が…。そして生まれた課題へ。
今回は前回掲載以外の山車(屋台)をご紹介。

東京都羽村市加美町

羽村市加美町  八王子型一本柱建て人形山車(屋台)の取材で訪れた羽村市。この加美町も八王子型の構造がみられるのだが、今回は八王子型については一先ずおいておき、木鼻についてご紹介していこう。
 唐破風付きの屋根を持つ屋台型で、四つ車の山車(屋台)。囃子台下に一本柱を建てたような痕跡が残されている。制作年代が不明ながら車輪は明治5年製とされ、同年代の作ではないかとされている。昔は所沢から人形を借りてきて乗せていたというが、昭和47年頃の改造で現在の屋台となったらしい。
 さて、木鼻部分だが角材を後輪心棒上部から囃子台前方にまで張り出させている。まだ、部材が新しく、恐らく近年修理された物だろう。基本的な構造は変わっていないとの事なので、修理前の構造もほぼ同様と思われる。角材のため、当HPが推測する南高麗型としての機能は薄くなってしまっているようだ。羽村市加美町も、やはり坂の多い地形であるため、往時はこの木鼻が活躍したことと思われる。前輪の梶部分が大八車が流用されている点も入間市新久の山車(屋台)との共通性が見受けられおもしろい。その前輪の腕木に神奈川県許可の焼印が押されているのも大事な資料だ。

羽村市加美町  羽村市加美町

東京都瑞穂町石畑

瑞穂町石畑  こちらも八王子型一本柱建て人形山車(屋台)の取材で訪れた瑞穂町。八王子型として有名な石畑の山車(屋台)。
 唐破風付きの屋根を持つ屋台型で、四つ車の山車(屋台)。一本柱を建てる構造が残されており、産業祭などで一本柱を建てる貴重な山車(屋台)。明治12年の作で、地元石畑の大工の作。人形は最初からなかったとされる。
 さて、問題の木鼻部分だが前方に張り出してない。どこに南高麗型の構造が?と思われるかもしれないが、実は内蔵されているのだ。下の拡大写真をご覧頂きたい。囃子台直下から後輪車軸上まで部材が伸びており、前輪は鉄製のピンでつながれている。この部分を見れば南高麗型と通じる構造をしていることがお分かりいただけるだろう。
 では、何故このような構造となったのであろうか?石畑も急ではないが、やはり坂の多い地形である。南高麗型の利点を生かすには申し分のない土地がらと思われる。それならば、安定性の良い前方張り出しを採用しなかったのは何故か?
 ある時、現地で山車の曳きまわしを見ていて気が付いたことがある。町内を曳きまわす際、割と狭くクネクネとした道も巧みに梶をとりながら大きな山車(屋台)を曳いて入っていく。そう、このクネクネした道に入る際には、南高麗型のように前に前輪が張り出していては曲がりきれない可能性が高いのだ。そこで、南高麗型の遊びのあるピン部分の構造だけを活かし、囃子台直下へ内蔵したのではないかとの考えに行き着いた。
 これならば細い道へも容易に入っていける上、木鼻を中心としたピン構造で前輪の接地は万全。土地柄に合った仕様といえるのだ。
 ─と推測してみたのだが、そう遠くはない結論かと思う。もっと単純に明治初年に石畑下組が購入した山車(現所沢御幸町の山車のこと。現在の石畑の山車は上組のもの。)の形状に倣って作られたから…という理由かもしれない。そして後から南高麗型の構造が取り込まれた可能性もある。この辺は想像するしかない。ただ、いえるのは土地柄にあった構造となっているという点。これについては間違いないと思われる。

瑞穂町石畑 

↓木鼻は力桁として後輪車軸まで伸びている。 瑞穂町石畑

2つの山車と入間郡の南高麗型との関係
 ともに明治時代の作となる2つの山車。前回、入間市新久が発祥では?との仮説を立ててみたが、今回の2地区の山車は山車はどうだろう?羽村市加美町については、新調された部材が多く、構造から進化の度合いが不明だが、現状の構造と同等のものであったとするならば、南高麗型としてはやや完成された部類と思われる。木鼻が角材になるなど、舗装され整備された道路による地形変化に対応する形で本来の機能が薄くなっている感がある。そのへんから、羽村市加美町が発祥とするには少々無理がある。  では、瑞穂町石畑。こちらは、明治12年の作と言う点、南高麗型を現地の地形に応じて進化させた様子が伺えることから南高麗型の影響を受けての製作と考えられる。土地柄から入間郡の南高麗型を参考にしたのかは分からないが、羽村市加美町の木鼻が昔は角材ではなかったならば、羽村市加美町を参考にした可能性もある。
何れにせよ、南高麗型の発祥地としては可能性は薄いと思われる。
 2地区とも入間郡の南高麗型の地域より拓けた土地であるため、山間部である入間郡の当該地区の様に 必要に迫られるほどの構造ではないと思われる。その辺も急な坂の多い入間市新久あたりが発祥では?とする要因でもある。  

仏子から入間市奈賀町、そして狭山市下諏訪へ譲渡された山車
入間市奈賀町時代  現地取材で現在、狭山市下諏訪の山車(屋台)が木鼻が改造される前の入間市奈賀町の時代の写真を入手できた。以前の木鼻の形がこれにより、判明した。
左の写真がそれである。見覚えのある木鼻は、入間市新久の木鼻と酷似している。切り落とされた木鼻が特徴だ。梶となる大八車様式も同様である。譲渡元である入間市仏子は新久から 入間市奈賀町時代  囃子を伝授されていることから師匠筋の山車を参考にする典型的な例といえる。(または仏子のほうが先ということも考えられるが…さて?)車輪は大きく南高麗型に多く見られる典型的な形であったことが写真から判明した。写真を提供していただいた地元の方には、御礼申し上げます。

入間市高倉も南高麗型だった
入間市高倉 先日、前回の南高麗型の項をご覧頂いた入間市高倉の方から高倉も昔は前方に車輪の張り出した南高麗型であったと伺った。情報ありがとうございます。 高倉の山車は現在は置き屋台として車輪はなく飾り置きの状態。車庫からレールをつたって飾られる特殊な構造。南高麗型としての時代は昭和4年の製作当時から国道16号バイパスが開通する昭和44年頃までが活躍した時代と思われる。車輪はなく、黒須(四区舞子連)にあった山車の車輪を借りて曳きまわしたという。  それ以前は自由研究の第一考にあるとおり、川越→入間市志茂町→高倉と譲渡された一本柱型人形山車であった。この頃から南高麗型であった可能性もあるが、高倉に譲渡されたのは大正7年とされ、明治期以前の製作が多い、南高麗型としては新しい時代となる。発祥地としての可能性は薄いと考えられる。ただし、南高麗型としての地域性は十分でアップダウンの多い土地柄。さぞかし南高麗型の特性を発揮できたと考えられる。
 左写真は現在の高倉の屋台。車輪はなく、後部に少し見えるレールの上を移動し祭礼時に曳き出される。この屋台が昔、張り出した木鼻を有する南高麗型の山車(屋台)であったという。

日高市高麗川・四本木の山車は東京都北小曽木の山車(屋台)だった
青梅市北小曽木  日高市高麗川・四本木の山車の譲渡元がほぼ判明した。東京都青梅市北小曽木(現成木八丁目)の取材で、旧山車の存在を知り、地元の方のご記憶と当HPの情報を摺り合わせ、古写真で確認したところ、ほぼ間違いないと確認できた。北小曽木にあったときは二段屋根の屋台であり、日高市で一本柱高欄に改造されたようだ。譲渡時に車輪は譲渡せず、北小曽木の現在の山車(屋台)へ引き継がれたという。
 古写真で木鼻が前方へ張り出した南高麗型の特徴も確認でき、今は舗装され走りやすい道だが、坂が多く、南高麗型の山車の優位性を発揮できる土地柄であることも確認できた。旧山車の制作年代は不明だが、高麗川・四本木地区の山車の譲渡元が分かり、南高麗型の必要な土地柄であったことが確認できたのは大きな収穫であった。
 左写真は現在の青梅市北小曽木の山車(屋台)、昭和31年9月に地元大工の手により製作された。四つ車、唐破風付きの屋根を2段持つ囃子台に廻り舞台を擁す。前輪に梶が付く屋台型。廻り舞台は先進的なボールベアリング方式で当時としては珍しい構造。ご覧の通り、南高麗型の構造は有しておらず、青梅市街地の山車構造に準ずる形式となっている。

一応のまとめと、新たな疑問
 現在持ちうる情報はこれで全てです。2回に渡って展開した南高麗型の山車について。今回入間郡外の山車、新たな情報を追加したところでの管理人の考えをまとめてみた。諸所ご意見があるかと思うのだが、あくまで個人的意見なので参考までということでご理解頂きたい。
 様々、地域によって形状に差があるが、前輪が前方に張り出し、1本の木鼻が本体とをつなぐ役割を果たした独特のスタイルが南高麗型(当HPで勝手に命名)の特徴である。そのスタイリングのすばらしさは、利便性から生まれたもので、特に外見から分かる重量バランスによる安定性の部分よりも、一本の木鼻にピンを刺しただけのシンプルな構造が生んだ、前輪の可動範囲の広さこそがこのスタイリングとなった最大の要因であろう。
 それは、うねった坂道の多い土地柄が生んだ独特の物で、前輪の可動範囲が広いことにより、うねりのある坂道でも山車の4輪が安定した状態を保て、転倒の可能性を大きく回避できる構造となった。これが南高麗型が山間部に多い理由となっている。最初に考案した大工はなんと頭のキレる方であったことか(前輪の可動範囲は偶然の産物かもしれないが…)。その構造の発祥の地として有力なのは入間市新久であろうと考えている。いくつかの新しい試みを試している点、伝承される製作年などからであるのであくまで管理人の推測であるが。
 というのが管理人の今回の自由研究のまとめである。いろいろ難しく書いてしまったが、 ともかく、特徴的なスタイリングの山車が存在することを知っていただければ、構造がどうとか、意味はこうだとかは、二の次であろう。 TOPTOP
上の写真のような位置からの眺めなど、南高麗型のスタイリングの優れている点が良くお分かりいただけるのではなかろうか。なかなかに魅力的なスタイリングである。まずは実物をご覧頂き、前輪の稼動する様子を見ていただければなるほど、傾斜地で有効な構造であることをご確認いただけると思う。

 実は、南高麗型発祥地であろうと推測した入間市新久の山車(屋台)には、南高麗型としての形状以外に気になる点が前々からあった。囃子台の横幅:長さの割合が通常の屋台が上から見ると長方形に見えるのに対し、新久の山車(屋台)は長方形より正方形に近い比率なのだ。そして、昔乗っていた人形を支えた柱の位置にも謎が…。この辺の謎を追っていくうち、南高麗型へと繋がる、ある推測が浮かんだのである。これについては、南高麗型の話から逸れてしまうので別の考察で追っていくことにする。

 ここまで好き勝手書いてしまったが、あくまで管理人の個人的意見として読んでいただきたい。
また、南高麗型の山車についての御意見、御情報ございましたらお知らせ頂ければ幸いに存じます。

取材に於いて各地の関係者の皆様には大変お世話になりました。
ご協力いただいた方々に御礼申し上げます。
また、青梅市北小曽木の祭礼情報を頂きました手力尚@あ組様には御礼申し上げます。
御蔭様で日高市高麗川・四本木との繋がりが判明致しました。ありがとうございました。

2009.10.30up

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