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自由研究

《 南高麗近郊に多く見られる山車(屋台)形状 》

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囃子台よりも前方に張り出した前輪が一本の木材で山車本体と結ばれる・・・
取材した範囲内では、この南高麗(飯能市)、入間市、狭山市、日高市。そして
別件で取材した羽村市に見られるこの山車(屋台)形態。今回は他地区の
山車(屋台)とは、明らかに異なるこの山車(屋台)形態に興味を向けてみた。
以下、便宜上この形態の山車(屋台)を南高麗型山車と呼ぶ事とする。

地域性

地図 南高麗とは飯能市南西部に位置する(右地図参照)。そこから放射状に入間市、日高市、狭山市、羽村市が位置する。
 赤い丸は現在、南高麗型山車を所有する地区。オレンジ色の丸は以前所有していた地区。日高市四本木・高麗川は青梅市 成木から譲渡され、狭山市下諏訪は入間市仏子から入間市奈賀町へ譲渡された山車を譲渡された。そうすると この南高麗型山車の範囲は狭まり、南高麗(飯能市)と入間市の飯能市寄りの地域に限られてくる。  この辺りのどこかで発案された形態なのではなかろうか?という推測も自然と沸いてくるだろう。

南高麗型山車の構造
模様  地域性をご理解頂いた所で、南高麗型山車の構造を見ていこう。側面から見て頂くのが一番、この山車(屋台)の 形状を理解できるかと思い、簡単な側面図をおこしてみた(左図)。図面は新久の山車(屋台)。当HPで 起こした物なので細部に違いがあるかと思うがご容赦願いたい。さて、この図面を見て頂けば、いかに 前輪が大きく前方に張り出しているのがお分かりいただけるかと思う。
力ゲタ  この張り出した前輪と山車本体を繋ぐのが一本の木材。鉾型の山車で言えば「力桁(ちからげた)」にあたり、 重要な土台となる部材である。鉾型の山車はこの「力桁」は2本、平行して取り付けられ(右下写真)、 曳き綱が結ばれる。「力桁」の前後に木鼻彫刻が装飾される事が多い。南高麗型が鉾型と違うのは2本ではなく、 一本の「力桁」によって支えられている点である。前輪の車軸と一本の「力桁」を繋いでいるのは、 地面に垂直に差し込まれるピンで、上から「力桁」、車軸を貫通して繋がっている。このピンを中心に左右に梶を切ることが可能となっている。 前輪と山車本体を結ぶ一本の「力桁」は囃子台下の井桁台(せいごだい)へ繋がり、そこから後輪の軸まで 伸びている。後輪については特に南高麗型を示す特徴はない。強いてあげれば後輪軸材に前輪から伸びてきた力桁を受けるための 仕口が切られているくらいか。このように南高麗型の山車においては、前輪とそこから伸びる力桁が特筆すべき構造の全てといってよい。

南高麗型山車の便宜性
力ゲタ  さて、ここからが今回の本題である。何故、このような構造になったのか?である。 前輪を前に大きく張り出した構造は見た目にも安定感があり、転倒を避けるため…というのは 間違いないとは思うのだが、それならば何故、前輪を支える力桁が一本なのか。重要な力桁が 一本というのは、安定性からいけば考えにくいのではないか。2本のほうがずっと安定するのは 明白である。現に南高麗地区を擁する飯能市の他の山車では力桁2本を前方に張り出し、そこに 前輪を配するものも存在する。ただ、安定性を求めたのであれば、力桁2本に行き着くと思うのだが、 力桁2本に行き着くまでの過渡期の山車なのであろうか。
集会所  そんな疑問を抱きつつ取材をしていた、ある日。あることに気がついた。 場所は飯能市下畑。山車の飾り付けのため、集会所へ移動している時のことである。 下畑の集会所は道路よりも少し高いところにあるため、急な坂を登る必要があるのだが、 写真のように斜めにうねりながらの坂なのだ。山車は、ここをバックで一気に上りきった。
 通常、このような場所では4輪にサスペンションなどの緩衝装置のない山車では 転倒の危険性がある。全ての車輪が固定されているためだ。ところが、南高麗型の下畑の山車は、この坂を事も無げに登ってしまったのだ。 その際の前輪の動きで、南高麗型山車の利便性がはっきりと見えてきたのである。
遊び  南高麗型の山車の後輪は固定であるが、前輪はピンが差してあるだけで、実は遊びがある。 遊びというのは、動きの余裕の事で、前輪は左右方向だけでなく前方から見てピンを中心に回転方向への 動きが多少可能なのである(左写真参照)。これにより、4輪固定の場合であれば、1輪、場合によっては 2輪も車輪が浮いてしまうような、坂や、うねりでも4輪を地面に接することが可能なのである。これこそが 力桁が1本になっていることの最大の利点といえるのではないだろうか。南高麗型の山車の作られた 地域はいずれも山際で高低差の大きい地域である。この地域特性が、南高麗型の山車を生んだとすれば 特殊な構造にも納得がいく。

南高麗型山車の発祥
 南高麗型の特性、利便性については想像できた。では、どこで発案された山車だったのだろう。 各山車の制作年代は

間野 明治初期
下畑 明治初期
直竹 明治9年
上畑 明治25年
新久 明治45年再建(前の山車は安永10年の作と伝わる)
坂石町分 不明、昭和3年に屋台に。囃子連の結成は大正2年。
仏子 不詳(大正6年の写真には写っているため、それ以前)
四本木・高麗川 不詳

と、なる。

年代でいけば間野か下畑の山車が一番古くなるが、間野の山車の力桁から木鼻までは松の木の幹の独特のうねりを 取り入れたもので、前輪を前方に張り出させる構造がうまく機能するかわからない、最初期の段階でここまでの 冒険をするとは思えない。恐らくは他の南高麗型の山車を見て、松の木を取り入れることを思いついたと推測される。 下畑の山車は車台周りが近年一新されており、旧来の山車が、どのようであったか見ることが出来ず手がかりが得られ ない。下畑の山車は近年の改造である為、構造自体はそう大きく変わらないと思われるが、このように途中で改造が 施され、新調時は南高麗型ではなかったが改造された可能性もあるので制作年代が、そのまま発祥地になるとは限らない。  ということは、発祥地は特定できないとするしかなさそうである。で、終わっては、自由研究としては尻切れトンボ なので、管理人の考えをまとめとして記しておくことにする。諸所意見があるかと思うのだが、あくまで個人的意見なので 参考までということでご理解頂きたい。
 各地の構造をみたところ、一番試験的な試みが見受けられるのが新久の山車であった。初めての試みの場合、様々な アイデアが盛り込まれ、自分の土地に不要と思われたアイデアは次へは引き継がれないのが普通である。南高麗型の現存数の 多い飯能の 南高麗の山車は、ほぼ仕様としては統一されていてほぼ完成されている。対して新久の山車は様々なアイデアが盛り込まれた 痕跡がみられる(例えば、前輪の舵がブレーキも兼ねていたり)。また、新久は巡行経路のアップダウンが激しく、 南高麗型の特性が必要な土地柄である点も見逃せない。他の地区でもアップダウンがあるが、平地の率のほうが高い。 新久の場合、アップダウンの率のほうが高いのである。
 もう一点、一般的に囃子連は師匠筋の祭礼を参考にすることが多い。師匠の山車をみて、構造の優位性を理解し、 地元の山車を作る際に参考にするのは有り得る話である。山車制作年代の古い下畑の師匠は新久である。新久の旧山車は安永10年 の製作という話から、この頃の山車はすでに南高麗型の形式を有していた可能性すらある。  このような事柄から管理人は新久が発祥では?と睨んでいる。万事が万事、推測でしかないのだが、 あくまで個人的意見として読んでいただきたい。

各地の南高麗型山車(屋台)
入間市新久 飯能市下畑 飯能市上畑 飯能市直竹
山車 山車 山車 山車
前輪 前輪 前輪 前輪
丸太を切り落としたソリッドな木鼻が特徴。 金輪を嵌めない昔ながらの車輪。 後輪に金輪を嵌めるが、前輪は嵌めない。 長く張り出した木鼻が特徴。

飯能市間野 飯能市坂石町分 狭山市下諏訪 日高市四本木・高麗川
山車 山車 山車 山車
前輪 前輪 前輪 前輪
現在休止中。松の木を使ったうねりのある力桁が特徴。 張り出し量は少なく、1枚板を丸く切り出した車輪に特徴。 入間市仏子で作られた。入間市奈賀町を経て現在は当地に。 青梅市成木から譲渡された山車。

南高麗型の山車について、他地区の新しい情報も仕入れましたので、もう少し続きます。続きをお楽しみに。

2009.7.18up

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