タイトル

《  八王子型一本柱立て人形山車(屋台)の屋根後面の疑問 》

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以前から気になっていた、八王子型一本柱立て人形山車(屋台)の屋根。前面に対して
後面の屋根は、あまりに殺風景。八王子型一本柱立て人形山車(屋台)は正面に力を注ぐ
とはいえ、破風板すらないのは、いかにも寂しい。もちろん破風板が付いている山車もあるが、
一本柱を後から立てるタイプには、破風板が無いものが多い。これは何故か?一本柱を後立てするにしても
立てた後、破風板を付ければ解決することではないか…。ずっと気になったままに
なっていたが、入間市仏子の古写真で、ピンとくるものが見つかった。

疑問

模様 取材中、入間市仏子の神社の拝殿に飾られていた、大正時代の所沢市御幸町の山車の写真を見ることが出来た。
 仏子の古い山車には人形が乗っていたという話を伺い、拝殿に、その写真があるとのことから拝見させて頂いた。
 それが左の写真。写真には八王子型山車、屋台型山車、太鼓櫓、底抜け屋台が写っている。 年代を見ると大正6年7月15日とある。屋台の方は、どうやら、仏子の物らしい(現在確認中)が、人形山車の方は、 所沢市御幸町の物に間違いない。この写真は以前、H市O先生から見せていただいたことがあった。 先生が写真を入手されたのは仏子ではなかったため、どこで写されたものか調べておられた。手古舞の持つ 弓張り提灯に「ぶ」の文字と4本の斜め線から「ぶ四(し)=仏子を示すデザイン」であることを突き止められたという。 先生から、恐らく何かの祝いで御幸町から仏子に貸し出されたものであろうとの見解を頂いていた。
 何の祝いだったか、3年がかりで仏子にて聞き込みを続けているが、当時を知る方がおらず、 いまだ、不明である。この件は引き続き聞き込みを続けていく。

模様 模様
さて、ここからが今回の本題である。今回のお題は「八王子型一本柱立て人形山車(屋台)には何故、後部破風板が付いていないか?」と いう点である。右の写真は御幸町山車の部分を拡大したもの。現在の物とほぼ変わりない形態をしているが、 屋根上から伸びた一本柱に気になるものが括り付けられている(拡大写真上)。昔の江戸の一本柱型山車に見られた、吹貫のようにも 見えるが、どうやら、後幕を吊るしているように見える。なるほど、昔は、一本柱を立てたまま山車を曳行していたので、
そこから後幕を吊っていた。そのため、後面の破風板を隠すように幕が下がり、付けても見えなくなってしまう破風板は、 必要が無かったと推測できる。
 そこで、思い出したのが、東京都羽村市教育委員会で出していた「八雲神社山車調査報告書」である。 この本には、羽村市東町、八雲神社の山車の調査結果が掲載されている。この山車は以前、砂川村一番組で所有していた山車で、 羽村市東町へ譲渡された山車。砂川村といえば八王子型一本柱立て人形山車(屋台)が10本もあったとされる地区で、 この八雲神社山車も、やはり八王子型一本柱立て人形山車(屋台)である。現在は一本柱を立てず、屋台型山車として 曳きまわしが行われている。この八雲神社山車の後面破風板も付けられていない。
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 上の写真は、その「八雲神社山車調査報告書」に掲載されていた写真を許可を頂き、転載させて頂いたもの。 山車と一緒に譲渡されたと見られる砂川村「壱番組」当時の後幕なのだか、写真のように虹梁の上に設置するには 横幅に少々の無理がある。裾の方を見て頂けば分かるとおり、幕自体の幅は、もっと広いのだ。 長さの方も、「壱番組」と書かれた「組」の字の下余白部分は「壱」も字の上余白部分に対し、 やや狭く、バランスが悪いように感じる。恐らくは丈を詰める加工がなされているものと推測される(実物を 見ていないので推測でしかないが…)。これらの事から羽村市東町の山車の後幕も前記、御幸町の山車の写真のように 一本柱から吊っていたのではないかと推測できる。
絵馬 絵馬
入間市、久保稲荷神社に奉納されている、重松流創始者、古谷重松奉納絵馬(上写真、撮影協力:久保稲荷神社様、並びに氏子様)にも八王子型の山車が描かれ、 その幕の吊り方も、どうやら一本柱から吊るされているように見受けられる。離れた地域で似た仕様の 山車が見られるということは、当時は後幕は一本柱から吊るのが普通だったのかもしれない。では、 八王子ではどうだったのか?八王子型といえば、前述のH市O先生。写真を見せていただいたときには 細かいところまで見ていなかったので、この幕については質問できていなかった。そこで改めて幕についても 質問、ご回答いただいた。先生曰く、八王子に残る古写真に幕が吊られているものが複数あるとのこと。 著名な研究家、I氏も同様の見解を示しておられたことが分かった。先生方の意見と同一の見解になったことで この件について納得がいく事となった。

結び

 以上の事から、昔は一本柱から後幕を吊っていたため、後部破風板をつける必要がなく、 現存する山車にも破風板がないものと推測される。その後、電線などの影響で一本柱を立てられなくなり、そこに吊っていた幕を屋根下に吊ることになったため 現在では、それが一般化し、後ろの破風板が無い状態のまま曳きまわされていると考えられる。その後の取材で 東京都瑞穂町、殿ヶ谷の山車は一本柱を立てていない時でも屋根上から後幕を吊るして曳きまわしているのを確認。 重要な資料となった。


今回の取材において、入間市、仏子囃子保存会様、所沢市御幸町様、H市O様、
羽村市八雲神社様、氏子様、東京都羽村市教育委員会様、東京都羽村市郷土博物館様
入間市久保稲荷神社様、氏子様
大変勉強になりました。関係者の方々に御礼申し上げます。

関連HP

重松流祭囃子 ←所沢市御幸町の山車の古写真はこちらのHPでも紹介されています。

2008.2.10up

※写真(画像)の無断使用、転載等禁止。

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