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自由研究

《 古新聞読み漁り:古新聞に掲載の赤坂氷川神社、田町4丁目、5丁目の神武天皇 》

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地元の取材でいろいろ調べ物をしているうち、地元以外の情報も得たりしている。
今回は古新聞を調べているうちに見つけた「氷川~社の祭禮」なる記事について。
これは、川越の氷川神社の記事か?!と思ったが、読んでみると東京は赤坂の
氷川神社の祭礼の記事であった。最近山車2本を復活させるなど注目の祭礼である。
地元取材範囲ではないのではあるが、後々、地元とのつながりが出てくる可能性も
考えて番外として載せていこうと思う。
(写真は修復された裏伝馬町二丁目の源頼義と新町二、三丁目の山車)。

新聞
氷川~社の祭禮

赤坂の氷川~社ハ本年大祭に當るを似て
仝區(ドウク)田町四丁目五丁目にてハ數年前よりの
貯金にて~武天皇の鉾花車(ホコダシ)を新調する由且つ
同社の祭禮ハ從來(ジュウライ)六月十四十五の両日なれども
兎角(トカク)雨天勝(ガチ)にてあッたら美觀を無にする事あるより
今度繰り上て六月四五の両日に執行するとの事なり

明治23年(1890)5月4日 読売新聞朝刊より

人形の作者?
 原文は旧仮名遣いを素人読みで間違いがあるかもしれないが、おおよそ内容は伝わると思う。 要約するに明治23年の赤坂氷川神社大祭で氏子町内の田町4丁目と5丁目で神武天皇の鉾型山車を 新調したと。従来は6月14,15日が祭礼日だがその日は毎年雨が降ることが多いので 6月4,5日に繰り上げて行われるという内容であろう。 明治23年当時でも山車を作るということは、相当なお金が掛かったことが、この記事から伺える。 数年前から貯金してようやく完成させた山車。さぞかし誇らしかったことであろう。

このとき作られた神武天皇の山車の雄姿は氷川神社拝殿に収められている大絵馬(磯田長秋画、明治44年9月15日奉納) で一部ながら確認できる。 赤坂氷川神社の祭礼について書かれた「赤坂氷川神社 御用祭と氷川山車」という 本が港区教育委員会から発行されており、その表紙に大絵馬の絵柄が使われている。 神武天皇は裏表紙に上鉾より上の部分が描かれている。また、この本によると人形が不完全ながら 現存していると言う。
 田町4丁目、5丁目の神武天皇の山車について記されているページを見ると、 「人形 神武天皇 大正四年製作 作者は 百雲正だし鉄・山本鉄之 この人形は成田市仲町所蔵の 明治三十五年、村田政親・山本鉄之共作の神武と甚だ似ている。」とある。 ?大正4年製作?ということは古新聞記事の明治23年新調の後に山本鉄之(だし鉄)の手により新調されたのか? 二十数年ほどで新調するとは考えにくい。何かで破損した人形を修理したか、破損がひどいため新調したというなら ありえそうではあるが…。
 そういえば、今年の1月にO町K先生とお会いした時に赤坂氷川神社で神武天皇の展示をしているというお話を 頂き、K先生の知り合いの研究者の方が「神武天皇には古川長延の作風が見られる。」と、おっしゃっておられるから 実物を見てきては?と情報を頂いていたのを思い出した。残念ながら行くことができず実物を拝見できなかったが、 取材範囲に2体現存している古川長延作の人形ということで、大変興味をもった。古川長延作という事を頭において 「御用祭と氷川山車」に記載の神武天皇の写真を見ると、なるほど、取材範囲の川越市松江町二丁目の浦島や、 越生町上町の豊島左衛門之尉の人形に似た感じである。
 では、山本鉄之(だし鉄)の人形はどんな感じか? 平成19年の江戸天下祭りの際に、件の成田市仲之町の神武天皇(山車製作:村田政親、人形制作:山本鉄之)を拝見できた (下写真参照)が、本に掲載されている 神武天皇の御顔とは違っていた。素人には分からない共通点があるのかとも思ったが、 成田市仲之町の方はリアルな顔立ちでいわゆる生人形の作風であるのに対し、本に掲載されている御顔は 雛人形のそれに近い。
成田市仲之町神武天皇(全身) 成田市仲之町神武天皇(アップ)
人形全体 人形御頭
 とすると、やはり、に山本鉄之(だし鉄)は大正4年に修理をしただけと考えるのが妥当ではないか?ということになってくる。 だが、古川長延作という証拠もない。この手の証拠は、そう簡単に見つかる物でははいので、川越市松江町二丁目の 浦島のように修理の際に内部に書き付けでも出てこない限り、正解は分からないだろうと思っていた。
 そんな折、久しぶりに古川長延という名が出てきたので川越市教育委員会で発行している 「川越氷川祭りの山車行事」という本に掲載の千代田日報「古川長延聞き書き」という明治33年の新聞記事を読み返してみた。 当HPも聞き書きがメイン。このような文章を読むのは大好きで、時間が経って読み直すことが多い。 読み直すことで、新たに結びつく事柄も多いのだ。その御蔭で良い記述を見つけることができた。 古川長延が拵えた山車が思い出すまま上げられているのだが、その中に「赤坂田町四丁目五丁目の神武天皇」との 記述があるのだ。ということは、明治23年に新調された神武天皇は古川長延の作としてまず間違いないと 思われる。「古川長延聞き書き」が掲載されたのは明治33年で、その10年前なら古川長延作として 差し支えないであろう。

古川長延作

 古川長延作となれば、現存は数少ないといわれる古川長延作の人形にまた1体加わることになるのだが…。と、 ここまで書いたがNPO法人赤坂氷川山車保存会様のHPには、既に「明治の新聞に古川長延作の記事があり、 新たな発見がありました。」との記述があり、恐らくは前述の千代田日報の記事の事であろう。記述からすると古川長延作として 問題ないようだ。また1体、古川長延作の人形が発見されたことになる。今回取り上げた明治23年の読売新聞で 制作年代も判明し、作者、製作年が揃った。人形の修復も終わっているよう(NPO法人赤坂氷川山車保存会様のHPに写真が掲載)なので、 あとは山車の修復を待つのみである。巡行が今から楽しみだ。その折には神武天皇の御顔をじっくり拝見するつもりである。

2009.6.8up

※写真(画像)の無断使用、転載等禁止。

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